奥行きの増えた部屋 

 

 合わない。
 一人暮らしのワンルームマンションで、まずそのように宇佐見蓮子は気づいた。



 違和感を覚えたのは、浴室から出た後だった。
 土曜日の昼下がり、彼女は部屋掃除に精を出していた。浴室掃除を終えて、次はトイレ掃除だ、と扉を開けた瞬間、ふとした感覚が彼女の脳内をかすめる。
 まるで、トリックアートを見た後のような、空間認識を歪められてしまった、あの感覚。
 慌ててトイレから出ると、浴室の方をのぞき込む。
 この部屋は浴室の横壁とトイレの奥壁がくっついている。ワンルームマンションやアパートメントにはよくある構造だ。
 しかしこの構造が、彼女を気づかせたのだ。
 合わない、と。

 部屋の隅に積んでいるケースの一つから、メジャーを取り出し、おもむろに計測を始める。
 トイレの奥行きは130センチメートル。浴室のドアからトイレ側の壁までは25センチメートル。合計で155センチメートル。
 それでは、とその2室から壁を隔てた向こう側を測ってみると―――。

 140センチメートル。

 はて、やはりどこかで測り間違えたのだろうか、と彼女は思い、二度、三度と計測をやり直したが、それでもこの結果が変化するということは無かった。
 それでは、と彼女は思案する。
 それでは、外側から測ったときに足りなくなってしまうトイレ側の、或いは浴室側の、15センチメートルは何処から生じたのであろうか。僅かな違いであれば誤差で済ませられたであろうが、こんなにも大きな差があると誤差だとか、目の錯覚だとかで済ませられるはずもない。こんなこと常識ではあり得ないはずだし、起こり得ないはずだ。起こり得ないはず―――ではあるのだが、起こってしまった。
 非現実的で、常識の範疇外。そんな問題と対峙するときの相棒は、彼女には一人しかいない。

「もしもし、メリー?あのね―――。」



 不動産業者のデータベースからこの部屋の間取りをダウンロードしている間に、彼女の相棒は到着したようだった。ピンポン、と一度だけインターホンが鳴る。
 パタパタと受話器の掛かる壁へ近づき、受話ボタンを押して通話マイクに向かって呼びかける。
「メリー?いま開けるからちょっと待ってて。」
「…………」
 ドアの向こうからの返事はない。彼女はふと、勧誘員とメリーと勘違いしてしまったのだろうか思った。そんなはずは無いのだけれど、一応確認を取ってみる。
「あの、失礼ですがどちら様でしょうか?」
 数秒の沈黙の後、ドアの向こうから反応があった。
「私…メリーさん…。今、あなたの家の前にいるの…。」
「インターホンで会話してるんだから当たり前でしょ!鍵開けとくからさっさと入ってきなさい。」
 ガチャリとドアキーのシリンダーから音がしたかと思うと、部屋の奥へと遠ざかっていくドンドンという足音が聞こえた。
「…ノリが悪いわね。」
 ボソリと呟くと、マエリベリー・ハーンは静かにドアを閉めた。



 メリーは「ホントだ。なんかだまし絵みたいで不思議ね。」なんて言葉を漏らしながら、トイレと浴室をためつすがめつ見ていた。金色の頭が左右にひょこひょこと動く。
 そんな彼女の様子を背に、蓮子はデスクへ向かい、プリントアウトした間取り図に様々な書き込みをしていた。
 この間取り図によると、トイレ側は115センチメートル、浴室側は25センチメートルだから、つまりは不可解な15センチメートルはトイレ側のものとなる。
「ということは、解決するにはトイレ側からアプローチすればいいわけね。」
 未だにひょこひょこと動き続けているメリーを躱しつつ、蓮子はトイレの中に入る。確かにトイレタンクと壁との間が、いつもより少しだけ広くなっているように感じた。と、同時に―――。
「うわ、ホコリが…。」
 彼女はトイレ掃除がまだ済んでいなかったことを思い出す。頻繁に掃除をしているためそれほど汚れている訳ではないが、ここ最近テストやレポート、秘封倶楽部の活動でバタバタしていたため、掃除する機会を見つけられなかった。今日はそのための部屋掃除だったのだ。
 しかし、その途中でメリーを呼び出してしまった。
「蓮子、どうしたの?固まっちゃって。」
 蓮子の視線の先を覗き込もうとメリーがトイレに入ってくるが、
「え?あ、いや、うん。全然、なんでも全然全然!」
 いくら秘封倶楽部の相棒であっても、これを見られるのはまずい、と思った。恥ずかしいのもあるが、これのために”家事の出来ない女”とメリーに思われるのも嫌だった。冷静に考えると普段の蓮子の家を見ているメリーに限ってそんなことは無いのだろうが、なぜかこのときは必死に隠そうとした。
「メ、メリーは後方支援!後方支援をお願いするわ!!」
 蓮子の言語がまとまらない。とにかくどうにかしてメリーを押しとどめようとする。
「後方支援って…。見ているしかないじゃない。」
「じゃあ私が壁を調べている間、なにか雑談でもしましょ。あ、そうだ。さっきのメリーさんの話とか。」
「それって、私のことじゃなくて、玄関先でやった都市伝説の方の?」
 メリーが話に乗ってきた。
「そ、本で読んだのがずいぶん前だからところどころあやふやなのよね。ね、メリー、覚えてるなら改めて話してちょうだい。」
「別にかまわないけれど…、私も正確さにはあまり自信ないわよ。」
 怪訝そうにするメリーに、蓮子はニコリと笑う。
「問題ないわ。きっと私よりはマシよ。」



「その受話器の向こうから聞こえる声は、こう告げました。”わたし、メリーさん。いま、あなたの後にいるの…。”と。 怖くなって振り向いた女の子は、ついにその人形に殺されてしまいました。」
「え?」
 話し終えたメリーに向かって、蓮子が頓狂な声を上げる。
「え?どうしたの、蓮子?」
「あ、いや、私が読んだ話と最後が違うから…。」
 蓮子は壁をぐいぐいとあちこち押しながら言葉を続ける。
「私が読んだ話は”あなたの後にいるの…。”で終わってたのよね。どっちが正しいのかしら?」
「さあ。都市伝説だもの、正しいも何もないんじゃない?」
「そりゃそうね。いずれにしろ女の子が殺されちゃう終わりだと、誰がその話を伝えたんだろうって矛盾が生まれちゃって、実話っぽさが消えちゃうのよね―――と。」
 蓮子が何かを確かめるかのように壁の同じ部分を何度も触る。
「ここだけ何か違うわ。壁紙の向こう側が、硬いでもない、柔らかいでもない、変な感じ。どうにかして確かめられないかしら…。」
 彼女が、かしら、と言い終わる前に振り向いた場所にいたメリーは、いつものようにニッコリと微笑みながら、身体の後ろで組んでいた両手を解くと、すっと右手を顔の高さまで上げた。その手には黄色の物体。大きさはボールペンほどのものだが、幅はそれよりも幾分か広い。メリーが笑顔を崩さないまま指を少しずつ動かすと、チキ、チキ、チキ、と銀色の部分が徐々に顔を出してくる。
 そう、カッターナイフ。
 蓮子は視線をメリーとナイフとの間で行ったり来たりさせ、必死に思考を巡らす。

 カッターナイフを見せているということはつまりはそういう事なのかしら。いや、でもここが賃貸だということはメリーもわかっているはずよね。うん、わかっているのにそうしろということはあきらかに悪意があるじゃない。私はメリーにそんなことされる謂われなんて無いはずだけど…ってあれ、もしかして、さっきの玄関先のこと、怒ってるのかしら…。

 心なしか彼女の笑顔が怖い。ほんの数秒の無言。その僅かな間でも握りしめた蓮子の両手はじっとりと汗ばみ、首筋が熱くなる。やがて、蓮子はふらりとトイレのフタに座り込み、ぐったりと項垂れると、小さく囁くような声を出した。
「さよなら、私の敷金…。」



 薄く橙色に染まる壁紙に、ざくり、とカッターナイフの刃を立てる。
 訳もなく壁に刺さり込んだ刃は、そのままずぶずぶと壁に沈んでゆく。蓮子はそれを真下に引き下ろすと、抵抗なく20センチほどの切れ目ができる。一旦壁から刃を抜き取ると、切れ目と直角になるよう、再び壁に刃を差し込み、今度は真横にカッターナイフを動かしていく。トイレの奥壁にL字型の切れ目ができた。
 切れ目から何もにじみ出てこないことから、中にあるのは液体でないことが推測できた。

「…じゃあ、開けるわよ。」
 蓮子は切れ目に爪を立て、掴んだ壁紙に少しずつ力を加えて剥がそうとする。

 その刹那、背筋が凍るような悪寒がした。このおかしな空間を目にした瞬間から生まれ、徐々に広がっていた不安が、みるみるうちに恐怖に上塗りされていく。後ろにはメリーしか居ないのに。振り向いてはいけない気がするのは何故だろうか。これではまるで、”メリーさん”の話そのもではないか。気のせいだ。気のせいだ。気のせいだ。不安も、恐怖も、悪寒も何もかも。振り向いてはいけないという嫌な予感も。そうだ、そうに違いない。

「ねえ、メリー、―――。」

 メリーは先ほどの位置から変わらずに立っていた。蓮子は、笑っているように見えるメリーを視界の端に捉え、その



「話を伝えたのが加害者のメリーさんだったら、矛盾は無くなるわね。」






―――ねえ、知ってる?”奥行きの増えた部屋”の話―――。

 

 

2009.4.7 東方創想話へ投稿

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