五月雨雲を眺めて
 
 
 
 
 腕に張り付く肌掛けの不快感があった。
 腕を曲げる動作、躯を捻る動作、脚で肌掛けを跳ね除ける動作、枕に右頬を寄せて、瞼を開く動作。顔を、首を、肩を、腕を、肘を、手首を、腰を、脚を、足を、指を、僅かでも動かすたびに、自らの汗であるのかそれともこの季節のもたらす独特の湿気であるのかすら判然としない水分が、それらの全てにまとわりついて、私を愚鈍にさせた。
 湯の様な水の様な油の様なこの妙な気分の中にいつまでも身を委ねていたとして、それはそれで良いだろう。けれども、この部屋の向こうから誰かが呼ぶ私の名前が聞こえた気がして、私は重苦しく軋む躯を起こした。


 布団の上から腕を伸ばして障子戸を開けると、澱んだ空気が部屋の中から抜ていき、顔や躯には部屋のそれよりも少し冷えた、それでもじっとりと湿り気を含んだ風が当たる。夏も近いというのに、見上げた空に浮かぶ雲は厚く、黒く濁っていた。晴れ間らしい晴れ間になりそうな青空は、まだまだ遠くの山の向こうにあった。
「こりゃあ一雨くるかな……」
 這うようにして部屋から身を乗り出すと、聞き覚えのある声が廊下の向こうから聞こえてくる。
「神奈子様ー」
 声のする方に顔を向ければ、廊下の突き当たりから緑の髪をした青い服の巫女が姿を現した。
「あっ、神奈子様、おはようございます」
 年相応らしい、明るい挨拶だ。今日の天気とは正反対のようだな、と思う。
「うん、おはよう早苗……」
「? どうかされましたか?」
 東風谷 早苗は不思議そうな目を向け、首を傾げてみせる。
「いや、少々寝苦しくてね。それより何か用があって私を呼んでいたんじゃないかい?」
 佇まいを正しながら尋ねると、早苗は表情を暗くした。今日の天気のようだな、と思う。
「実は……」


「猫か」
「そう……ですね」
 妖怪の山。私と早苗はその上にある守矢神社の境内の片隅に居た。草葉が手を広げるように茂ったその陰で、猫が横たわっている。その体躯は酷くやつれ、毛はところどころ抜け落ちて禿げ、耳や尾にも張りが感じられない。目は薄く閉じられ、乾いた口からは涎の一滴すら垂れていない。疲れきった身体だった。湿った土に四肢を投げ出し、その猫は静かに息絶えていた。
「朝起きて境内を掃いていましたらここに……」
「老いた猫だ。恐らく寿命だったんだろう」
「寿命、ですか」
 屈み込んだままそれを覗き込んでいた早苗は、こちらに向き直った。
「そう、寿命だ。むしろこんな山の中、寿命まで生を全うする方が珍しいくらいさ。虫がわき出す前にどこかに埋めてやればいいだろう」


 寿命。

 本殿の入り口に腰を下ろすと柱に背をもたれかける。猫の亡骸に土をかけたあたりから地面に斑点模様をつくりはじめた雨はすっかり地面の色を濃くし、石畳の脇に小さな川を作っていた。この季節の温い雨はどれだけ降っても暑さを払ってはくれない。雨の温さと水分を吸い取ったような風が露出した皮膚を撫でると、何ともいえない気持ち悪さが全身を覆った。雲がのろのろと流れている。晴れ間はまだだろうか。

 ――。

 雲。例えば、雲。高い空にもうもうとわき上がり、酷くやかましい雷とざあざあ降りの雨をもたらす入道雲。積雲として発生した後に上昇気流によって急速に発達し、激しい降雨を残して終息するまでおおよそ数時間。その雲の寿命はそんなところだろう。外の世界では科学者達が世界の寿命を計っていた。数十億年。途方もない。

 ――――。

 さて、この雨雲の寿命はいかばかりか。

「酷い雨ですわね」
 振り返ると上半身があった。濃い紫色のドレスに身を包んだその女性は、窓辺に佇んで外を眺めるかのように空間の段差に肘をつき、白い手袋をした手を顔に添えながらこちらに微笑んでそう言った。
「大妖怪がこんな山に何の用だ?」
「博麗の巫女に神社を追い出されてしまいまして」
 女性は目を閉じ、困ったようにため息を吐いて小首を傾げた。別に困ってなどいないのだろう。
「それでうちに、か」
「お邪魔致します」
「せめて参道から来て欲しかったんだがな」
「この雨ですから」
「腕に掛けているその傘は飾りか?」
「これは日傘で……あら?」
 空間の隙間から身を乗り出しかけたその女性は、何かに気付いたようにこちらを見る。
「……屍臭が致しますわね」
 重たい風に金色の髪が揺れる。
「ああ、境内に猫が死んでいてね。早苗が埋めるのを手伝っていたんだ。随分と老いた猫でね、きっと寿命だったんだろう」
「寿命、ですか」
 女性がこちらを見つめる。朝の早苗が重なって見えた。
「なあ、八雲の」
 雨は止まない。


 人間だろうと妖怪だろうと、誰しもが、生きて死ぬ。
 大きな怪我をしなければ、病気に罹らなければ、決められた年月を過ごして、そして死ぬのだろう。

 それでは、私は。
 神は、いつ、死ぬのだろう。

 本来、寿命というのは期間的なものだ。その期間の中で生き、時が来れば死ぬ。
「妖怪というのはいつ死ぬんだい?」
 そう、時が来れば死ぬのだ。本当ならば。

「種族にもよりますわね。弱い妖怪ならば、今日か明日にでも死ぬかもしれませんし、もっと長く生きるかもしれませんわ」
 それでは、その時が何時来るのか解らない神は――。
「その弱い妖怪と大差ないな。神というのは」
 八雲 紫は不思議そうにこちらを見つめた。いつもの不敵な表情とは違う、彼女の本当の表情をほんの少しだけ垣間見ることができるような、そんな顔をしている。
「なあ、八雲の。賢者のあんたがよおく知っているように、私たちのような神という存在は常に誰かしらの信仰によって成り立っているんだ。信仰が大きければ大きいほど力は増すが、信仰が無くなってしまえば存在さえも危うくなってしまう」
 彼女はこちらを見つめたままだ。特に口を挟むつもりは無いらしい。
「信仰を失い、神であることすら失いかけて、その両方を欲してこの幻想郷に来たときのようにね。今は早苗だけじゃなく多くの人間や妖怪から信仰を得ているけれども、それだって永遠じゃない。ひょっとすると今日か明日に死んで、いや、消えてしまっても決して不思議ではない、不確定な存在なんだよ」
 私は彼女を見た。
「そんなことを、思っていたんだ」
 彼女は私の表情を見ると、はっとしたような顔をし、目線を足下へと落とした。
 今の表情は今日の天気のようだ、とでも思われたのかもしれない。

 無言が続いた。雨は弱まっているものの止まず、地面を濡らし、水たまりを跳ね続ける雨音は屋根瓦を叩くぱたぱたという音に混じって辺りに響き続けている。
 ふいに、彼女がふうと息を吐くと、顔を上げて遠くを見た。鳥居の向こうの空には晴れ間が見え、光が差し込んでいた。
「乾を司る神が随分なお顔をなさるのですね。そんなに心配しなくても、少なくとも私が居る間はそんなことはございませんわ」
「そんなことも何も、あんたは別に私を信仰している訳じゃあないだろうに」
「あら、何も慕い従うことばかりが信仰じゃありませんわ。あなた方がこの幻想郷へ来るということは、幻想郷がそこにあって欲しいと、そんな思いがなければとてもできないことなのですよ。それも、一種の信仰だと、私は考えていますわ」
 彼女はこちらを見据え、微笑みを見せる。八雲 紫の、いつもの表情。
「そこにあって欲しいと…?」
「そう。私が誰よりも、そして何よりも愛しているこの幻想郷があって欲しいと、そんな風に思ってくれたあなた方が、同じようにここにあって欲しいと、居て欲しいと、どうして思わずにいられましょうか」
 言うと、彼女はパッと笑って見せた。今まで見たことのない、まるで早苗が見せるような、屈託のない笑顔。一瞬そんな表情を見せると、少し照れたように顔をそらし、また遠くを見つめていた。
「さて、そろそろお暇いたしますわ。それでは、ごきげんよう」
 返事も待たずに彼女はトンと軽くジャンプし、床に融けるように隙間から居なくなった。




 気付けば、雨音は無くなっていた。境内にできた水たまりに波紋は無く、陽光を反射して輝き、暗く厚かった雨雲もいつの間にか流れ、真南から西へと傾きだした太陽が辺りを照らす。
 私は本殿から少し身を乗り出すと、晴れ渡った空を見た。空は青さを取り戻し、浮かぶ雲も白く小さくて、その色合いが見ているこちらも心地よい。
「そういえば、さっきのあいつの…」


 彼女の顔が、ちょうど今の天気のようだったと、そんな風に思った。
 
 
 
 

2010.10.9 東方創想話へ投稿

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